先日、面白いワインを飲む機会があった。
ボトルにはラベルが貼られていない。代わりに、ザラザラした砂のような小さいジャリのようなものがボトル全体にびっしり貼り付いている。最初は汚れかと思ったが、よく見ると違う。サンゴ藻やフジツボなどの“海の生き物”たちがくっついているのだ。
なぜ海の生き物が貼り付いているのか。実はこれ、ボトルを海に沈めて、一定期間を海の底で寝かせてから出荷されるという「海底熟成ワイン」なのである。
「SUBRINA」(サブリナ)という名称のこのワインは、南伊豆沖で、ダイバーたちの力を借りて水深15メートルの海底に沈め、7カ月間、熟成させたもの。海底で熟成させるとワインセラーで熟成を待つよりも早く、しかもまろやかに変化するのだそうだ。
海底が熟成を促進する理由はいくつかある。まず、15メートルの海底では気圧が地上の倍以上になるので、高圧によって瓶内に残った酸素がワインに溶け込みやすくなる。また波の微振動によって、分子の均一化が早く進み、渋味と果実味がスムーズに融合する。そして摂氏15度~18度を行ったり来たりする水温のゆるやかな変化も、ワインの速やかな熟成を促すのだそうだ。なるほど、いわれてみればセラーの温度は常に一定だし微振動もないから、熟成させようと思うと、数年単位の時間がかかってしまう。
この海底熟成ワイン「サブリナ2020・act4」、ボトルの中身は南アフリカ産の赤ワイン、シラー品種だそうである。ビンテージは2020年で、南アは好天続きで良い年。こういう年のワインはタンニン(渋味)が強く、通常は熟成に時間がかかる。だがこのサブリナはタンニンの角がとれて丸くなっており、まるで果実のジャムのようにまろやかな味わいだ。セラーで5~6年寝かせるとこの柔らかさに近づくかもしれないが、7か月でここまで角が取れて円熟味が出るというのは、確かに驚きである。
ただし「すべてのボトルが好転的な変化をするわけではない」とサブリナの製造元・コモンセンス社は言う。海もワインも生き物なわけだから、不測の出来事もあるのだろう。
ワインの海底熟成、最近では地域活性化目的もあって、南伊豆だけでなくあちこちの海でプロジェクトが始動している。パターンは2つあり、ひとつは牡蠣の養殖場周辺の海で行なう場合。大分県佐伯市や宮城県南三陸周辺がそれで、海に潜れる漁師たちが海底にワインの設置を担う。もうひとつはダイビングスポットとなる綺麗な海。こういう場所ではダイバーたちがボトルの設置を担う。サブリナが誕生した南伊豆のほか、西伊豆、三浦半島、沖縄、奄美大島の海でもダイバーの手を借りて、海底熟成事業が始まっている。サブリナを販売するコモンセンス社でも請け負っているそうだ。
◆そもそもの始まりは沈没船の引き上げ◆
海底熟成ワインは日本に留まらず、スペイン・バスクや、イタリアはアドリア海の一角などでも作られている。このように世界のあちこちでワインを海に沈め出したのは、1998年、80年ぶりに引き上げられた沈没船から大量のシャンパーニュが発見され、大きな話題になったことがきっかけだと思われる。
その沈没船、ジョンコピング号は1916年、ロシア皇帝ニコライ2世の命によって、フィンランドに駐留するロシア軍のためにワインを輸送する途中、ドイツの潜水艦によって撃沈された。船に積まれていた他のワインは劣化していたそうだが、シャンパーニュだけは健全な状態を保っており、その後「奇跡のシャンパーニュ」としてオークションに出され、超高値で取引された。
沈没船が見つかった海底64メートルは摂氏4度と低温だったこと。また海底の水圧が、瓶内のガス圧とほぼ同じだったこと。そして当時のシャンパーニュは甘口で、現在より何倍も糖分が多くボディが強かったことも、劣化を免れた要因となったようだ。
ちなみにこのシャンパーニュ「エドシック・モノポール・ディアマンテ・ブルー1907」をあるワイン会で、私は幸運にも飲むことができた。ボトルはラベルも何もなく、コルクは黒く腐食しており、「本当に飲める状態なのか?」と内心ドキドキしたが、驚くことに、弱いがちゃんと泡が立っている。味わいは、歳を重ねたワインならではのシェリーっぽい香りが少しあるものの、液体は生き生きとしており、アプリコットや蜂蜜などの食欲をそそるアロマも残っていた。森閑とした深い海の底で、世界が激しく移り変わった80年間を、このワインは静かに、そして確かに「生き続け」てきた。なんとも不思議で、ドラマチックなワインならではの物語だ。
このエドシック・モノポール引き上げ事件の後、さらに大きな事件が起きた。2010年、あるダイビングチームがバルト海オーランド諸島沖に沈む難破船から、168本のシャンパーニュを発見したのだ。ラベルは剥がれていたが、コルクの刻印から、世界的に有名なメゾン「ヴーヴ・クリコ」の、200年程前のシャンパーニュと判明した。エドシック・モノポールよりさらに長い年月をバルト海の底で過ごしたヴーヴ・クリコ……。これらは醸造時からほとんど品質が損なわれていなかったというから驚く。
このように国内外で活発化しているワインの海底熟成。ちなみに最近では、自分のワインを委託して海に沈めて熟成してもらう事業も、北海道、神奈川、千葉など、あちこちで始動している。地上セラーでは熟成に20年かかるような屈強なワインを、こうした“海底セラー”に預けて熟成させるのは、早く飲めるメリットもあるし、ちょっと夢もあるし、悪くない気がしている。
プロフィール
Yuko Kibayashi 【樹林 ゆう子】
弟とユニットを組み、漫画原作を執筆。姉弟で亜樹直(あぎ・ただし)のペンネームを共有し、
2004年からワイン漫画「神の雫」を連載開始。
「神の雫」はフランスのほか韓国、台湾、アメリカなどでも翻訳され、翻訳版を含む発行部数は1200万部。
2009年、グルマン世界料理本大賞の最高位の賞「殿堂」を受賞。
2023年現在、ドラマ「神の雫/Drops of God」が世界配信され、各国で好評を博している。
【編集部より特報!】同ドラマは、膨大な作品数を誇るApple TV+(2019年にサービススタート)の過去全てのオリジナル番組中で、歴代ランキング・ナンバーワンを獲得!
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