水木しげる『ないしょの話』のないしょ話
●元貸本屋のおばあちゃんからもらった、水木しげるの超貴重貸本漫画
今思うと、夢のような、嘘のような。でも、本当にあったお話です。
僕が小学2年生だったある日、友達の家の近くの公園で遊んでいたときのこと。何か呼ぶ声がするので見ると、公園脇の竹藪の奥でおばあさんが手招きするのです。
「ちょっとみんな、こっちへいらっしゃい」
「なーにー? おばあちゃん」と素直に駆け寄る僕ら。
「みんなに漫画の本をあげるわよ」
「わーい!」
おばあちゃんの指さすところを見ると、木のリンゴ箱(昔はリンゴ箱といえば木に決まってましたが)に詰め込まれた大量の漫画本が見えるじゃないですか!
「なるべくたくさんの子にあげたいから、漫画はひとり一冊ずつね」
「はーい!」
「でも、おばあちゃん、なんでこんなにたくさん漫画持ってるの?」
「おばあちゃんちはね、この間まで貸本屋さんをやってたの。だけどもうお店をやめちゃったから、いらない本がたくさんあるのよ」
「そーかー」「ありがとう、おばあちゃん!」
僕ら(近所に住んでいる男の子や女の子で総勢5~6人はいたでしょうか)は、おばあちゃんから一冊ずつ貸本漫画をもらい、それぞれ公園のどこかに座る場所を見つけて早速、読み始めました。
そのとき、僕がもらったのは『悟空のなんとか』という題名(もはや覚えていない)の知らない作者の作品で、あまりおもしろくなく、あっという間に読み終えてしまいました。そこで友達の持っている漫画を見ると、同級生のまこと君が手にしているのが水木しげるの『ないしょの話』という漫画だとわかりました。
「まこちゃん、それ読み終わったら取り替えてくれる?」
「いいよ」
気のいいまこと君は、ほどなく読み終えると、約束通り交換してくれました。実はそのとき、非常に嫌らしい話ですが、僕はまこと君の水木しげる作品と自分の『悟空のなんとか』とを比べ、“絶対にあっちのほうが価値がある!”と判断したのです。
でも、そんなよこしまな思いがあるとはまったく想像しなかっただろうまこと君は、あっさり『ないしょの話』と『悟空のなんとか』を取り替えてくれました。
そして僕は、彼の気が変わらないうちにと思い、ソッコーで自転車に乗ってウチに帰り、あとでじっくり『ないしょの話』を読み込んだのでした。
これが水木しげる先生の『ないしょの話』。貸本らしくビニールでカバーされているので、入手から半世紀を経た今でも良い状態を保っている。奥付に記載はないが1964年に発行されたらしい。描画のタッチやストーリー構築はすでに水木先生らしい完成度の高さ。原型となった『怪獣ラバン』とは雲泥の差です。そして小学2年生の僕の目論見どおり、今や非常な高額で取引されています。また、国分寺時代の東考社が出版した水木先生の貸本シリーズで『墓場鬼太郎』はこの一作だけで、あとは全部、時代劇でした。
『墓場鬼太郎』シリーズなのに鬼太郎の登場は冒頭と最後だけ。しかもねずみ男が食べようとしていた「魂の干物」を奪って食べ、液体と骨に分離して恐山で霊的治療を受けるという驚きの展開。これじゃ出番はないよね。
まるで二足歩行する毛むくじゃらのシロナガスクジラのような姿で描かれている鯨神。しかも「ウワハハハハ」と人間のような笑い声まであげている。しかし実際のゼウグロドン(バシロサウルス)は長い胴体でクネクネと泳ぎ、泳ぎはあまり得意ではなく、近海に住んでいたと考えられています。
『ないしょの話』の奥付には、東考社の国分寺の住所が記されています。これについて桜井さん自身は『ぼくは劇画の仕掛け人だった』に「出版物の発行所として奥付に印刷するにはあまりカッコいい場所ではなかった」と記しています。また、本来奥付にあるべき発行年月日がないが、おそらく貸本として流通する際、発行年で古いと敬遠されてしまうのを避けたのではないでしょうか?
●水木先生の名声を世に知らしめた、トラウマ的特撮ドラマ『悪魔くん』
それにしても、その時点(たぶん1966年)で僕はなぜ、水木しげる先生のことを知っていたのでしょうか? 調べてみると1966年(昭和41年)10月から水木先生原作の特撮テレビドラマ『悪魔くん』の放送が開始されています。そういえば確かに僕の中で『悪魔くん』は恐ろしいトラウマ的ドラマとして記憶されていますから、それを見ていた小学2年生の僕は水木しげるを知っていて、『ないしょの話』の価値を認めたのでしょうね。
そして、その奇妙な内容に衝撃を受けた僕は、これを一種の“家宝”として永久保存することを決めたのです。
ちなみに『ないしょの話』は伝説の漫画編集者として知られる故・桜井昌一(辰巳義興)さんが起こした東考社から出版された貸本漫画『東考社・ホームラン文庫』の中の一作で、『ゲゲゲの鬼太郎』の原型である『墓場鬼太郎』が登場します。
内容はニューギニアに何十万年も生き続けるという鯨の祖先「ゼウグロドン(別名・鯨神)」の調査に向かった研究者が、手柄の独り占めを狙ったライバル研究者からゼウグロドンの血を注射されて鯨神(ゼウグロドン)に変身し、海を泳いで日本に戻る、という話です(すごくおおざっぱですが)。
しかし、この貸本漫画は『墓場鬼太郎長編読切』となっていますが、鬼太郎が登場するのは冒頭と最後だけ。活躍するのはねずみ男という奇妙極まりない作品です。しかもタイトルといい、氷の巨人みたいなのが橋を持ち上げている表紙といい、内容を表すようなものは微塵もありません。おそらく詳しい内容を詰めずに適当に書名を決め、先に表紙を書いてもらい、その後に上がってきた水木先生の原稿を印刷所にぶち込んでバタバタ発行されたんじゃないかと思います。
ちなみに『ないしょの話』に描かれた鯨神の物語はその後、テレビアニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』などで何度もリメイクされ、1996年には『ゲゲゲの鬼太郎 大海獣』として劇場版映画も公開されているので、ご存じの方も多いでしょう。
1966年(昭和41年)10月6日から1967年(昭和42年)3月30日までNET(現・テレビ朝日)系で放送された特撮テレビドラマ『悪魔くん』。全26話を収めたDVDが全2巻で発売されていたが、現在は絶版の模様。当時のマガジン編集長である内田勝の著書『「奇」の発想』(三五館 1998年)によれば『ゲゲゲの鬼太郎』のアニメ化企画がテレビ局に受け入れられなかったため、まず制作費の安い実写で『悪魔くん』を製作し、そのヒットを受けて鬼太郎の企画を進めようと考えたそうだ。実際、その目論見は成功し、『ゲゲゲの鬼太郎』はアニメ化され、その後、1968年には水木先生原作による『河童の三平 妖怪大作戦』もドラマ化されました。
●鯨神物語の原点となった、幻の作品『怪獣ラバン』
さらに調べると、「怪獣の血を注射された男が自ら怪獣に変身して暴れまくる」というプロットは1958年に暁星書房から発行された水木しげる作品『怪獣ラバン』に原型がありました。この作品は2009年に小学館から完全復刻され、僕はたまたま入手できましたが、現在では品切れで入手は困難なようです。
ちなみに水木先生作品に登場する「ゼウグロドン(バシロサウルス)」は毛むくじゃらの鯨が立ち上がって二足歩行する姿で描かれていますが、現在の研究では実際のゼウグロドンは原始的な鯨であることは確かですが、蛇のような長い体をくねらせて泳いでいたと考えられています。
『ないしょの話』の原型となったのが1958年に発行された『怪獣ラバン』(復刻版)。原書の著者は「東真一郎」とあるが実際は水木しげる。例によって表紙と内容はまるで別物。描いている人も違うでしょうし、ゴーグルを付けた少年も出てきません。そもそもゴジラがニューギニアに棲息していて、その血を注射された人間が怪獣ラバンに変身するというのも妙。しかも本編の絵柄は水木先生らしさ皆無ながら、突如現れた怪獣ラバンに対抗してロボットのラバンを作って戦わせるなど、後の『ゴジラ対メカゴジラ』を思わせて面白い。この復刻版には怪獣ラバン読本が付いています。
●水木しげるの才能を見出した伝説の編集者・桜井昌一
ちょっと話はそれますが、『ないしょの話』を発行した東考社の社主であった故・桜井昌一さんは水木しげる作品にしばしば登場する“サラリーマン山田”のモデルとして知られています。この桜井さんは、2010年上半期のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」に登場する梶原善(かじはら・ぜん)さん演じる戌井慎二(いぬい・しんじ)のモデルでもあるのです。この朝ドラで、戌井さんは水木先生より年上のキャラとして登場しますが、実際は水木先生より10歳以上も若かったそうです。
この時代のエピソードは桜井さんの自伝エッセイ『ぼくは劇画の仕掛け人だった』に詳しく書かれています。なお、この本の奥付では著者が「水木しげる」となっていますが、これは明らかなミスですね。
水木作品に頻繁に登場する「サラリーマン山田」は東考社の桜井昌一さんがモデル。水木しげる先生の出身地である鳥取県境港の「水木しげるロード」には、妖怪じゃないのに「サラリーマン山田」のブロンズ像が設置されているそうです。
桜井昌一さんの自伝エッセイ『ぼくは劇画の仕掛け人だった』は、1971年に月刊漫画雑誌『ガロ』に掲載され、加筆して1978年、エイプリルミュージックから刊行されました。さらにその後、国分寺から埼玉県毛呂山町に移転した東光舎から内容を改訂し、1985年に桜井文庫として上下二巻で再発行されています。
この桜井文庫は、今やコレクターズアイテムで、水木先生の作品も多数、刊行されていました。そのせいなのか、桜井さんの自著にも関わらず、奥付では著者が水木しげるとなっているミスを発見。ちなみに発行人の辰己義興(たつみ・よしおき)とは桜井さんの本名です。
●水木先生と会いそこねた高校時代の悔しい思い出
そしてさらに余談をもうひとつ。僕が高校生時代、調布市に住んでいた同級生から聞いたのですが、彼は小学生のころ友達と遊んでいたとき、その子が突然、『オレ、水木しげるのウチ知ってるぜ。行くとサインくれるぜ」と言い出し、実際にみんなで自転車で走っていって水木先生のアトリエを訪ねたそうです。
アトリエに到着し、ピンポーンとチャイムを鳴らすとドアが開き、ホントに水木先生が「なーにー?」と顔を出しました。そこで「先生、サインください!」と元気よく答えると、各人に「ホイッ! ホイッ!」とあらかじめ書いてあったサインをくれたんだそうです。それを聞いた僕はなんとも羨ましかったのですが、考えてみればまだ高校生。なんにも知らない子供のフリして(若干、無理があるけど…)水木先生のアトリエを訪ねたらサインもらえたかもしれないな、なんて今になって悔しい思いを噛み締めているわけですが、もはや後の祭りですね。残念!
プロフィール
Masaharu Nabata【名畑 政治】
1959年、東京生まれ。’80年代半ば、フリーランス・ライターとしてアウトドアの世界を
フィールドに取材活動を開始。
’90年代に入り、カメラ、時計、万年筆、ギター、ファッションなど、
自らの膨大な収集品をベースにその世界を探求。
著書に「オメガ・ブック」、「セイコー・ブック」、「ブライトリング・ブック」(いずれも徳間書店刊)、「カルティエ時計物語」(共著 小学館刊)などがある。
現在は時計専門ウェブマガジン「Gressive」編集長。