「ワインには、賞味期限というものはないんですか?」
とある会合の席で、日本酒の愛好家からこんなことを聞かれた。「ないと思います。ワインは10年くらいは普通に熟成させて飲んだりしますし……。逆に日本酒はあるんでしょうか?」
その方曰く「賞味期限の記載はないですが、吟醸酒だと8か月程度で、加熱処理を行なわない生酒だと半年といわれてますね」
そんなに短いのか、と内心ちょっとびっくりした。日本酒の場合、やはりフレッシュな味わいと香りが魅力なのだろう。「熟成日本酒」というのもたまに見かけるが、メインストリームではない。
翻ってワインの場合、「新酒」が注目されるのは11月に解禁されるボジョレー・ヌーヴォーくらいのもの。ワインの世界では「新しいこと」に付加価値がなく、逆に古くなることによって価値が高まる。同じ醸造酒でも、日本酒とワインは、この一点においてまったく逆といえるかもしれない。
2018年、ニューヨークのオークションで1本55万8000ドル(当時のレートで6000万円)という過去最高額で落札されたのは、1945年のロマネ・コンティだった。この年のロマネ・コンティは第二次世界大戦の影響で生産量が激減したため希少性が高く、しかも45年は20世紀最高のビンテージだったので、こうした驚くべき価格になったのだった。
しかしこのワイン、人間でいうなら79歳の「後期高齢者」。人間同様、すっかり老化しているのでは……と思う方もいるだろう。だが、世界のさまざまな古酒を飲んできた私としては、ロマネ・コンティ45年はビンテージからみても間違いなく至高の味わいであり、少なくともあと10年は、美しく輝き続けると思う。
ワインは時間の経過とともに渋味や酸味、果実味といった要素がひとつに溶け合っていき、複雑さを重ねていく。品質やワインの格にもよるが、保存状態さえよければ50年、いや100年を経ても、飲む人に感動を与えることができる。私はそうした奇跡のようなワインと、幸運にも何度か巡り逢ってきた。
自分の記憶に強く残っている「100歳超えワイン」は2本ある。実はどちらもボルドー5大シャトーの筆頭、シャトー・ラフィットである。1本目は、そのラフィットのオーナーが開催した、創立150年の周年記念パーティで飲ませていただいたものだ。
ボルドーの中心地ポイヤック村に佇む、中世から変わらぬ姿のラフィットの城。記念パーティではその一階にあるダイニングで、伝統的フランス料理とともに1989年、82年、59年、55年、17年のラフィットが来賓客に次々と振る舞われた。いずれも古酒だが、老化の兆しは微塵もなく、89年などは「まだ飲むには若い」とさえ感じたものだ。そして、ディナーの掉尾を飾る最後の1本としてうやうやしく出されたのが1881年のラフィット・ロートシルトだった。なんと“明治14年生まれ”の超古酒である。
さすがにこれが出てきた時、内心では「長命なラフィットといえども、さすがに81年はヨボヨボなのでは」と訝った。というのも、少し前に1900年のシャトー・マルゴーを飲む機会があったのだが、このワインは抜栓から30分ほどで砂の城が崩れるように精気が抜け、老婆のようになってしまったからだ。そのマルゴーよりさらに20年近くも古いとなれば、まともに飲める可能性は低そうだ。
ところが、だ。このラフィットは、グラスに注がれると、たちどころに華やかな香りを放ち始めた。古酒の枯れたような香りとはまったく異なる、若々しい香りだ。ワインは繊細な酒なので、温度を一定に保ち、かつなるべく動かさないことが長期保存には大切なのだが、シャトーの地下カーブから一度も外に出していない「箱入りワイン」ならではの、鮮烈な生命力に圧倒された。
そしてもうひとつ、さらに古い「150歳超え」ワインを昨年、ワシントンD.C.のレストランで飲んだ。シャトー・ラフィット1870年マグナムで、これは私たちが親しくさせて頂いているワイン販売会社のアメリカ人社長Aさんが、ずっと昔にフランスで購入したもの。Aさんは世界的なワイン評論家,ロバート・M ・パーカー・Jrと親しくしておられ、「パーカー氏を交えて、ワシントンでこの1870年を飲もう」と、我々に声をかけてくれた。
1870年のラフィットをパーカー氏と飲むというのは、一生に一度しかないチャンスなので、私と弟はそのために渡米し、ワシントンまで、はるばる出かけていった。
1870年は“明治3年”。「飲める状態だったら奇跡かも」と思ってグラスを傾けてみたら……その場にいた誰もが感嘆の声を上げるほど、このワインは妖艶な香りを放ち、多層的で深遠な味わいを讃えていた。1870年のラフィットは、フランス全域を襲った害虫フィロキセラの被害に遭わず、接ぎ木をしていない「自根」の葡萄樹からつくられたという。だから、150年を超えても微動だにしない強靱な生命力を備えているのである。恐らくこのワインはあと50年後に開けたとしても、若々しい魅力を保っていただろう。
この夜は、世界のあらゆるワインを試飲してきたはずの76歳のパーカー氏も、子どものような顔になって、私たち同様、夢中でボトルの写真を撮りまくっていた。
永い眠りから醒めて命を吹き返し、飲む人に感動をもたらす、世紀を超えたワインたち。人間には果たせない生命の奇跡を、グラス越しに味わえるドラマチックさ……。エイジングによってワインの付加価値が高まるのは、こんな「時を飲む」感覚が、時間を経るごとに少しずつ、積み重なっていくからなのだろう。
プロフィール
Yuko Kibayashi 【樹林 ゆう子】
弟とユニットを組み、漫画原作を執筆。姉弟で亜樹直(あぎ・ただし)のペンネームを共有し、
2004年からワイン漫画「神の雫」を連載開始。
「神の雫」はフランスのほか韓国、台湾、アメリカなどでも翻訳され、翻訳版を含む発行部数は1200万部。
2009年、グルマン世界料理本大賞の最高位の賞「殿堂」を受賞。
2023年現在、ドラマ「神の雫/Drops of God」が世界配信され、各国で好評を博している。
【編集部より特報!】同ドラマは、膨大な作品数を誇るApple TV+(2019年にサービススタート)の過去全てのオリジナル番組中で、歴代ランキング・ナンバーワンを獲得!
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